文字起こし(だいぶ時間がたった2017年に文字起こし、2020年の今日ここに掲載、15年前の6月の記録です)
(全部で38分38秒、9分40秒あたりから)
鳥の声
足音。
(ごく小さなタイミングを合わせた声)
本日は、ご多用中のところ……、えー、
(黎明の塔、フラッシュを浴びる)
男たちの低い応答するような声。
本日は御多忙中(ママ)のところではございますが、本慰霊の趣旨をご理解いただき、個人としての参加ということでありますが、多数お集まりくださいまして誠にありがとうございます。
本日の、慰霊行事における実施要領について、連絡いたします。
はじめに、黎明の塔における式次第について連絡します。
黎明の塔での慰霊終了後、部外からの出席者、
団長、副団長、高級幕僚、および各部隊長は、現在地において写真撮影を実施しますので、しばらくそのままお待ちください。
(10分38秒)
本黎明の塔の由来についてご説明いたします。
昭和20年3月26日。
慶良間諸島に米軍が上陸以来、
帝国陸海軍の将兵の
決死の敢闘はもとより、
沖縄学徒隊、および県民による
献身的な協力もむなしく、
圧倒的な米軍火力の前に、
ついに矢尽き刀折れ、
6月23日黎明、牛島軍司令官および長参謀長は、この地において割腹自決されるに及び、
90日間にわたる組織的抵抗の終焉を迎えました。
自決に臨んで牛島軍司令官が読まれた辞世の歌を紹介いたします。
秋待たで枯れ行く島の青草は御国の春に蘇らなむ
本、黎明の塔は、昭和27年6月、第32軍関係者、および、沖縄仏教界らによって建立され、牛島軍司令官、および、長参謀長が合祀されております。
碑に刻まれた文字は、時の総理大臣、吉田茂氏の自筆であります。
塔の形は牛島中将が自決される際の姿を模しており、
その方向は皇居に向けられております。
なお、塔の管理者は、財団法人沖縄県遺族連合会であります。
(小鳥の声)
以上で本、黎明の塔の由来についての説明を終わります。
(鳥のさえずり)
ただいまから、慰霊を始めます。
はじめに、牛島軍司令官、および沖縄における戦いで散華された英霊の御霊に対し、黙祷を行います。
脱帽。
黙祷。
(一同首を垂れる。ラッパ独奏『国の鎮め』、14分くらいの個所)
鳥の声、シャッター音。
黙祷止め。
(一同首をあげる)
続きまして、黎明の塔に対し、拝礼を行います。
拝礼。
(礼をする)
お直り下さい。
着帽。
慰霊者を代表し、団長に献花をしていただきます。
(団長に花を渡す係り歩み寄る。団長前に進み敬礼、花束を手向ける)
ガサガサ
(団長、下がって敬礼)
ありがとうございました。
続きまして、焼香を行います。
(※に跳ぶ。)
最後にもう一度拝礼を行います。
拝礼
お直り下さい。
着帽。
いったんこの隊形を崩れされてもかまいませんので。
慰霊者を代表し団長に献花をしていただきます。
ありがとうございました。
続きまして焼香を行います。
(※)団長から順次焼香をお願いします。
係りが歩み寄って団長にお香を渡す。
桑江先生おねがいいたします。
ご焼香が終わられた方は元の位置にお戻りください。
咳。
桑江先生お願いします。
桑江、
携帯着信音。
ガサガサガサガサ
咳の音。
(カット変わる)
蝉の声
ひときわ
ガサガサガサガサ
蝉の声
足音
○○長、お願いいたします。
足音
よろしくお願いいたします。
咳
各部隊長の焼香が終わりましたら逐次ご焼香をお願いします。
(21分のあたり、小学生、中学生も混じっている。)
たばこと煙。(22分)
最後に……
もう一度拝礼を行います。
脱帽。
拝礼。
シャッター。
お直り下さい。
着帽。
(22分から23分)
一旦、この体形を崩されてもかまいませんので、前の方に詰めていただけま…せんでしょうか。
(ここで一度切れる)
本日特別におこし頂いた
桑江先生よりお言葉を賜りたいと思います。
桑江先生、お願いいたします。
よろしくお願いします。
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今から60年前、本月本日、午前4時30分。
あの〇〇〇〇〇〇、牛島司令官と長参謀長以下、割腹自決をされました。
沖縄戦は終了しました。
これは、私、退官の前の、昭和51年の本月本日、
団全員、
駐屯地、分屯地から20キロの行軍をして、この摩文仁丘(きゅう)上に集まり、午前4時30分を期して慰霊祭をした時の私の訓示です。
えー、昨日、そこんところの下の勇魂の塔、のところでも慰霊祭ありました。
私の家内の姉が、小学校、私と同級生ですが、32軍官房部付き〇〇で、
自決をし、(シャッター音)その名前が刻まれております。
その慰霊祭があって、
家内も行ってまいりました。
その家内の姉が、牛島閣下、長参謀長が自決されたときに着ておった下着、
下着を家内の姉が縫ってあげたということで。それで戦後30年経って初めて分かった。
で、家内の姉が、そこで自決したのは
戦争直後すぐ知らせがあったが、
30年経って、鹿児島出身の梶(かじ)わたるという人が、
おそらく、その内容は、終戦直後に書かれたんじゃろうが、
30年間思うところあって出版しない。
30年後初めて出版して、で、それがわかった。
えー、牛島閣下にそれを差し上げたところ、喜んでこれを着て、と。
ただ、あんたたち死んだらいかんぞ。
キレの先に白い布をつけて出たら、米軍は婦女子を撃つようなことはしないから。
絶対死んじゃいかんぞ、と。
万が一の時に役に立とうからって
ヒスイのカフスボタンをあげられて、
決して死んじゃいけませんよー、と言って渡された。
長参謀長も、これが長の形見ですと言って、茶碗の、ええ茶碗を、…という、
それを我々遺族が聞いたのが30年後です。
昨日もそこで慰霊祭、八原参謀の息子さんやら、
そのあれ、
実はこの団の慰霊祭、
昨日も大村(大嶺?)長官がうちへ見えられたので、大村(大嶺?)総監にも申し上げたが、
私は嬉しくてしょうがない。といいますのが、
33年前、部隊を編成以来、僕の一つの夢は、
この6月の23日、午前4時30分を期して、
摩文仁まで慰霊行進をして、ここで慰霊祭をやりたい、というのが。
宮中?(宮城?)におって部隊を編成した時以来の僕の夢だった。
ところが、まるで全県を覆たような反自衛隊運動。
その中で、えー、自衛隊が摩文仁慰霊行進をやって、プラスの面とマイナスの面とある。
それをずうっと図っておって、昭和50年の本月本日を期してやろうと。
ところが、ええ、混成団駐屯地以外の訓練、行軍ですね、これは陸幕長の許可がいる。
陸幕まで申請したら、却下された。
ダメだ、と。
なぜか、と。
半月後に海洋博が50年の7月から、海洋博があります。
その前に自衛隊が摩文仁行進をしてトラブルでもあったらいかんから、と。
陸幕長が許可しない。
翌年の51年、もう、僕も最後だ。
(ここで切れる)
(何の)陸幕長が許可せんでもおれはやるぞーっと以前からアドバルーンを上げておった。
あげておったせいもあるかもしらんが、51年には許可が出た。
それで、団全員、那覇駐屯地、あるいは分屯地からの行軍を、行進をして
午前4時30分に慰霊祭をしたわけです、が。
そのことについて僕の判断通り、翌日の新聞はあの一面、自衛隊が摩文仁の聖地を軍靴で荒らしたと、あの新聞、タイムスも新報も新聞一面に書き立てておったが、
抗議のデモ一つ、デモどころか抗議の電話一つなかった。
そのことは上にも報告してあったんですが、
事後、私はここにおるが、事後の団長にこうせいああせいなんて指示は絶対していない。
それは現職を退いたものとして、相談があればだが、こっちから勝手にそういうことは言わん。
残念ながら、あれから、……何代でした?……(別人物の声「19代」)……19代の団長、一人として摩文仁行進、この慰霊の日にやった人がおらない。
僕もやれとは言わぬ。
去年。
去年、団長とお話ししておったら、慰霊行進をしてここで慰霊祭をやった、というその写真まで拝見して、それは良かった、と。
僕も通知があれば、行きよったのに、と言ったのが、
今年はこういった通知もあり、こちらに参拝できたわけです。
ですから、そういった意味で、これは、昨日、ちょうかん(?聞き取れず)にも申し上げたが、
僕は個人としても心から嬉しい。
(ここで変わる)
牛島司令官の最後の歌は(“さきほど披露されたので”というような意味の事を小声で述べ)
今度は長参謀長の最後の〇〇を歌って……。
―――――
(次の漢詩はウエブより引用
http://www7a.biglobe.ne.jp/~bone/nikki/2015/2015-13.html)
醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海(ママ) 敢闘九(ママ)旬一夢裡 万骨枯尽走天外
―――――
醜敵 帯を締むる 南西の地
敵機は空を圧し 艦は海に満つ
敢闘九旬 一夢の裡におわり
万骨枯れ尽くして 天外に走る
長参謀長の辞世の詩ですね。
(吟ず)
しゅうてき たいをしむる なんせいのち
てっきはそらをあっし ふねはうみにみつ
かんとうきゅうじゅん いちむのうちにおわり
ばんこつかれつくして てんがいにはしる
終わります。
【参考】長の子孫のウエブサイトにある辞世の七言絶句は以下のようです。
待敵来攻南西地
飛機満天艦圧海
敢斗十旬一瞬夢
万骨朽果走天外
(司会)
大変ありがとうございました。
最後に団長より、お言葉をいただきます。
団長お願いします。
(団長)
どうぞ休んでください。
(桑江に)先ほどはありがたいお言葉ありがとうございました。
本日は早朝より第32軍司令官牛島中将、長参謀長。32軍全将兵のご慰霊、ご苦労様でした。
今回の、ま、慰霊祭というか慰霊は、記者の方々もあれですけれども、個人の参加ということでやらせていただきました。
部隊の部隊葬とかですね、そういうことではありません。
個人の参加ということでやらせていただきましたので、
そのへんはどうぞ、お含みおきください。
先ほど、司会者からありましたように
6月23日。
桑江先生からも詳しくありましたように、
60年前にまさにこの地で、当時の全権、指揮を、軍の指揮を執られておられました、32軍の牛島司令官であります、
自決をされてその自決をしたということがすなわち、軍の組織的な戦闘を終えた、と。
すなわち沖縄戦の終結、と。
そしてそれを終戦の日、と。いう風に重ねて。
その意義ある日に、意義ある時間に、意義ある場所で
このように哀悼の御霊を捧げる、ということは。
非常に意義あることであり
また、大切なことだと思っているんです。
また、32軍は当時の沖縄の防衛というような任務を担っていました。
そして、最後まで闘い、沖縄の地を守るために命をささげていったのです。
現在においてその任務を担っておるのは、ここにみんな集まっておる、第一混成団諸君、そして、さらには陸海空自衛隊の、私を含めた、諸君たちの任務であります。
そういう意味において、同じ任務を担っている。
いざとなったら沖縄県民のために命をささげてこの地を守るという任務を担っている我々が32軍将兵の御霊を追悼する、ということは非常に意義あることであり、また、さらに将来に向かって、任務を、決意を、新たにする、ということは非常に大切なことだと思います。
ま、本日は本当に朝早くからお集まりありがとうございました。
第一混成団隷下のみなさん。
そして、知念〇〇をはじめとした知念〇〇のみなさん。航空自衛隊を代表して。まずあの、初代の駐屯地せい(?、駐屯地指令?)であります、
桑江良逢様。
シーサー同志会の会長の高江洲さんをはじめとして。
(参考)シーサー同志会
https://newsi.okinawa/news/other/2017-02-21-115454
○○の皆さん。そして、防衛協会の青年部の、青年オピニオンの米盛さま。
新垣様、かげしまさん、
それから石垣から知花さん、
それから、旧32軍ゆかりのですね、こうださままで参加していただきまして、
盛大な慰霊の誠をささげる個人の集まりとなりました。
今日はどうもありがとうございました。
終わります。
(司会者)以上をもちましてとうせいによる慰霊を終了いたします。
なお、事後の行動につきまして連絡いたします。
部外からの出席者、団長、副団長、高級幕僚、および各部隊長は現在地において写真撮影を実施いたしますので、そのままお待ちください。
(変わる)
どうもありがとうございました。ええ、そうです。
これは、こういう。
終了。
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2017/06/12 文字化
2020/05/27 修正作業
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